思い出せば、52年前の1962年、大学を出て入社間もないときに、叔父・宮城荘三郎氏のかばん持ちとしてdrupaに来て以来、連続13回目のdrupa訪問となる。前半部は機械屋商売としてのdrupa詰めであったが、後半は中小印刷会社とのかかわりの中でdrupaを訪問させていただいた。 drupa1986では時の中曽根内閣の貿易黒字の解消施策の一環で、輸入促進ミッション団のコーディネーターとして参加させていただいた。
今年のdrupaは天候異変に見舞われてしまった。この時期のデュッセルドルフは天候が安定しているのが通常であるが、先週は豪雨に見舞われ、地元の方も驚いている。今drupaで何か異変が起きる予兆であるのかもしれない。
以下は、drupaの開催暦概略、その時々のネーミング、トピック、筆者の出席印を記した一覧である。
drupaは戦後間もない1951年にハイデルベルグのSternberg社長とErhalt経済大臣とが話する中で印刷界の復興はこまめな開催の展示会でなく、オリンピックを模したビッグイベントにしようとの発案で始まった。メーカー側の思惑とユーザー側のニーズが合致し、世界でもまれに見る産業展に育ったのだ。メッカの巡礼ではないが、今日では印刷人なら一度は訪問したいとの常識を作り上げている。
最盛期にはほぼ、デュッセルドルフ市人口に近い60万人弱の来場者を見た。一人平均、7万円をデュッセルドルフで使ったとすると、420億円が地元に転がり落ち、他方、最盛期のハイデルベルグ社はdrupa1990で1500億円もの受注を獲得したのだ。
規模的にはIGASの倍の会場面積で今回でも11日間開催で30万人の集客があるとする。
印刷界に入り、振り返って見ると、大変よい業界で仕事をさせていただいていることを恩義に感じている。母校の千葉大画像系学科が百周年を迎えるに当たり、記念事業としてイメージング教育ラボの設立の寄付を関係方面にお願いすることになった。多くの印刷会社、関連業界、団体からほぼ予定額に近い寄付を仰ぐことができ、当事者の一人として感謝に耐えない。ここで分かったが、100年経て印刷事業者は立派に事業継続がなされているものの、写真系事業者はデジタル化の波に飲まれ、影が薄くなってしまっている。印刷系事業者は中小企業にかかわらず、しっかりとした足取りで事業に取り組まれていくことを何とか後押ししてみたい。
そこでこのdrupa2016では私が関与してきた中小印刷業者の視点から眺めさせていただく。
引き続きdrupa2016(2)レポートへ飛びます。