以下の文面は?矢野経済研究所のYano Report 2008.3.10, No.1245に掲載された内容である。
水なし印刷に対する日本WPA、東レの取り組み
前述の通り、近年、環境対応への様々な取り組みを行っている中で、本稿では、印刷方式そのものが環境に対応している水なし印刷に注目する。
水なし印刷は、エッチ液やIPA(イソプロピルアルコール)などの有害物質が含まれている湿し水を使用しない環境対応のオフセット印刷方式である。従来の方式である所謂「水あり」印刷は、水と油の反撥する性質を利用し、湿し水を親水性である非画線部に定着させることによって親油性である両線部にインキを乗せ、印刷する仕組みとなっている。
水なし印刷では、版表面のシリコーンゴム層が従来の版の湿し水の役割に相当し、インキを反撥させる。
水あり印刷は、刷版が平凸版で、この凸版部分がはた画線部になるのに対して、水なし印刷は、刷版が平凹版で凹版部分が画線部となるため、水あり版に比べて露光・現象面積が格段に少なくなる。そのため、廃液量・薬液使用量に大きな差が生まれる。それにより、水なし印刷は、刷版?印刷工程時における有害物質の使用量を大幅に削減でき、環境への負荷を低減することができる。
また湿し水を使用しないことによって、インキが水ににじまないため、網点のひとつひとつがくっきりと再現され、高精細な仕上がりとなる。湿し水のコントロール技術が不要であることや、版や専用インキの品質向上により、操作性も良い。印刷機起動時の立ち上がりの早さから損紙も大幅に減らすことができ、コストや産業廃棄物の削減にも効果が期待できる。
廃液に含まれる有害物質量
水あり版 水なし版
現像液廃液 湿し水廃液 現像液廃液 湿し水廃液
PH 12.8 5.8 7.4 -
BOD(mg/リットル) 645 20,460 38 –
COD(mg/リットル) 21,500 14,080 110 –
湿し水に合まれているIPAは、大気中に有害なVOCを排出するため、多方面で使用規制が進んでいる。 2001年8月に日本印刷産業連合会は、印刷産業向けの「オフセット印刷サービス」グリーン基準において、『温し水のIPA濃度を5%以下』とする自主規制を策定、同10月には、東京都の環境確保条例がIPAを「適正管理化学物質」に指定し、排出量の報告を義務付けた。また、同12月にグリーン購入ネットワーク(GPN)が、印刷発注者向けの.「オフセット印刷サービス」発注ガイドラインにおいて『印刷時の湿し水にイソプロピルアルコール(IPA)を使用しない』あるいは『溶液濃度を5%以下に管理している』ことを、チェック項目に規定した。
環境保護の観点で内外から印刷産業の変革が注目されており、水なし印刷は、その一翼を担うと期待されている。
水あり版 水なし版
現像廃液 湿し水廃液 現像廃液 湿し水廃液
新廃掃法 × ○(*) ○ ○
下水道法 × × ○ ○
○…非抵触 ×…抵触 *他項目で該当する場合あり。
日本WPA 将来は印刷物の20%を水なしに
水なし印刷の技術自体は1970年代から開発されていたが、92年にアメリカバージニア州環境改善局が、78年に制定された産業廃棄物を下水道に排水する取り締まり強化のための条例「事前処理基準」をせさん背景に、水なし版の使用を奨励したことにより、バージニア州周辺でさかんに活用され始めた。その活動がアメリカ全土に広がり、93年に普及を進める団体、水なし印刷協会(WPA)がシカゴで設立された。 1990年代後半にはバタフライマークが制定され、フオード社がいち早く使用し始めた。それを見たトヨタ自動車が愛知県内の印刷会社に印刷物発注の際にバタフライマークの使用を提案し、日本で初となるバタフライマークの表示が許可された。その後、日本の印刷会社数社がWPAからバタフライマークを取得し、日本でも水なし印刷が話題になり始めた。そのような状況の中、01年に開催されたJGAS2001において、凸版印刷をはじめとする全国のWPA加盟印刷会社約20社が集まり、日本のWPA活動の第一歩を踏み出した。そして、02年5月に日本水なし印刷協会(日本WPA)が正式に発足された。発足当初は30社だったが08年1月現在は137社の会員企業、20社の協賛企業で成り立っている。会員数だけで見ると、まだ決して十分とは言えないものの、07年4月の時点で会員数は115社だったことを考えるとここ1年未満で22社増えており、普及が進んでいることが分かる。
ただ、加盟企業は東京近郊に集中しており、利用も関東が中心である。地方になると、地域になかったり、あっても県で1社という状況で、地域別で普及率に差がある。それにより、故意ではないが、バタフライマークが無断で使用されたケースもあった。まだまだ地方での協会の認知度は低く、その点は今後の課題でもある。
組織はアメリカ、目本の他に、ヨーロッパ(ドイツ・ミュールハイム)にもある。最近では中国の印刷会社も2社加盟しており、韓国企業からの問い合わせもある。
水なし印刷の利用者は60%が民間企業、40%が官公庁で、印刷物全体の5%が水なし印刷で印刷されている。企業の環境報告書に限っていえば、利用は65%を越えている。民間企業では、トョタ、目産などの自動車メーカーやオムロン、セイコー、リコー、新目本石油、
ビクター、ロイヤルホストなどで採用実績がある。
水なし印刷は現状、技術的には安定期に入っている。ただ、各社の導入ペースはやや鈍い。その要因はコストにある。水なし版は水ありPS版と比較して1.2倍?1.5倍の価格で、CTP版になって差は縮まったとはいえまだ高価である。版材料費自体は水あり版とはほとんど変わらないが、市場に出回っている数の差が高価格の要因となっている。版メーカーが東レ1社に限られていることもコストが下がらない一因であろう。印刷機に関しては、温し水を使わないので版面とインキローラーの温度が上がるため、ローラー内部に循環冷却通水を施す必要がある。ただ、顧客(プリントユーザー)の短納期要求に応えるため、ローラーの回転数を上げて刷ることが多く温度が上昇しやすいため、ここ4?5年に販売された水あり印刷機にはあらかじめ、この設備が搭載されている。水あり印刷機に冷却装置を後付けすることは、技術的には容易である。しかし、後付けはコストが高く、また水あり印刷に比べて水なし印刷は温度の他、湿度なども厳密に管理しなければ品質が保てないので、管理のための設備投資費がかかることは否めない。
またもう1つの要因は、印刷会社の水なし印刷に対する意識の問題である。前述の通り、版や専用インキの品質は向上しており、以前に比べて運用性は上がってはいる。 しかし、実際はまだ水なし印刷は難しいという意識が印刷会社間ではあるようだ。水なし印刷導入にあたって、水ありとの兼用というスタイルでは効率が悪いので、体力のない中小企業においては、水なし印刷専用体制を整える必要がある。その切り替えのリスクも歯止めをかけている要因と考えられる。
今後の水なし印刷の最大の課題は「普及」に尽きる。日本WPAでは、HPの充実(現在、ヒット数は約40万/月)やDM発行、展示会やイベントヘの参加、企業向けの勉強会など、水なし印刷の普及活動を積極的に行っている。今年は洞爺湖サミットのポスターやdrupa08への3極事務局合同出展など大きなイベントでの普及活動を行う予定である。
また、大日本インキ化学工業が開発した石油系溶剤を一切含まない水洗浄性水なしインキ 「W2」の普及に力を入れている。石油系溶剤が含まれている通常のインキは、洗浄の際に洗い油を使用する。日本WPAによると、洗い油は、湿し水の次にVOCを放出するとされており、環境負荷が高い。この「W2」は、水性液で洗浄でき、洗浄工程におけるVOCを大幅に低減することができる。水に馴染むインキなので、油性インキと湿し水で印刷する水あり印刷での使用はできない。水なし印刷方式にしか応用できない技術である。
このインキの普及に取り組むことによって、水なし印刷の普及との相乗効果を狙う。
今後の展望としては、会員数を250社?300社に増やし、印刷物の20%を水なし印刷方式で印刷することを目指している。また、日本だけに留まらず、世界的視野を持って水なし印刷の普及に取り組む方針である。
東レ株式会社
水なし版独占メーカー 年率約20%の成長を続ける
東レは、連結売上1兆円を超える大手素材メーカーである。水なし印刷事業は、情報通信材料・機器事業内の印写システム部で行っている。情報通信材料・機器事業全体の2006年度(2007年3月期)の売上は、2,638億800万円(前年同期比12.3%増)、2007年度(2008年3月期)は推定2,760億円(4.6%増)となる見込みで、順調に売上を伸ばしている。その中で印写システム部の売上は約100億円で、水なし版事業の売上はその半分弱と推測される。
水なし版事業の売上は、ここ2?3年で年率約20%の成長を続けている。その要因は、環境に対する社会的意識の高まりによって顧客(プリントユーザー)や印刷会社の環境対応への取り組みが活発化したことと、印刷会社からのスキルレス要望が強まっていることが挙げられる。印刷会社では、経験豊富な印刷オペレーターの数が年々減少している。初期設定さえしっかり行えば、経験やスキルに左右されることなく、若手のオペレーターでも品質を落とさず製品を提供することができる水なし印刷のニーズが増えてきている。
また、サーマルCTPの普及もその要因に挙げられる。アナログ(フィルム)製版時は、その調子再現差により、水あり印刷物に見慣れた顧客(プリントユーザー)、印刷会社が水なし印刷物を受け入れない傾向が強かったが、CTP化により、調子再現差という点で、水あり印刷との差が縮まり(水あり印刷の調子再現性が追いついてきた)、それが導入数増のきっかけとなった。両面印刷機の登場も見当性能が高い水なし印刷の普及を手助けした。
同社の推計では、両面機分野の水なし版シェアは二桁を超えている。
インキ成分の構成比
成分 ドライオカラー ドライオカラーナチュラリス ナチュラリス100 W 2
(一般インキ) (大豆油インキ) (ノンVOCインキ)
顔料 10?20 10?20 0?20
樹脂 30 25?30 20?30
植物油 10?15 0 5?15
大豆油 0 20?25 25?40
石油系溶剤 30?40 25?30 0
助剤 3?7 3?7 3?7
合計 100 100 100
日本WPA及び、全日本印刷工業組合連合会内組織である全印工連水なし印刷研究会の普及活動も大きな要因の1つと考えられる。
これらの団体は、実際に水なし印刷を導入している印刷会社の従業員をパネラーとして招き、セミナーや勉強会を積極的に行っている。実体験に基づくスピーチは、普及にあたって大きな効果をもたらしているようだ。
同社は、1977年に印刷用版事業を始めるにあたって樹脂凸版「トレリーフ」の本格生産を行った。もともと感光技術力という下地があり、その多角展開の一環としてオフセット版には注目していたが、富士フィルムが早期から参入していたということもあり、当時3M社の技術であった水なし印刷に注目した。
その技術を継承し、実用化に向けた開発が進められ、79年に同社初の水なし版が発売された。新しい技術ということもあり、苦戦が続いたが、90年代前半より黒字へ転換した。国内の販売体制は、07年8月に富士フイルムグラフィックシステムズ(以下FFGS社)と国内縁代理店契約を結び、今まで主要7社(FFGS社を含む)の代理店を1社にまとめた。同年10月より国内販売分すべては、FFGS社を通じて販売されている。残りの6社もFFGS社を通じて代理販売している。自社内の販売組織は東京、名古屋、大阪、九州の各拠点にあるが、現在はFFGS社と協業して営業活動を行っている。
同社が販売している水なし版は、PS販(ポジタイプ、ネガタイプ)、CTP版がある。PS版は「HG?2」、「DG?1」、「SG?3」のポジタイプ3種と「TANE」のネガタイプ1種である。CTP版は「VG?5」の1種が現在販売されている。「VG?5」は、水なし販売上の80%を占める。PS版の需要は、比較的CTP化の遅れているパッケージ分野や、昔ながらの製版方法での取引が続いている仕事がまだ根強く残っているため、今後もなくならないと考えられる。
07年9月に開催されたIGAS2007で出展された水なしケミカルレスCTP版「INNOVA(イノーバ)」は08年期中には発売される。これまでの水なし版は現像工程で循環処理をしているため、回収廃液は出ないが現像液自体は使用していた。それに対して「INNOVA(イノーバ)」は、現像液を一切使用せず、水道水のみを使用するため、現像工程でのケミカルレス化を実現している。一般のサーマルCTPセッターに対応しており、運用性も良い。水あり販でも現像工程での廃液を出さないことで注目を集めている「プロセスレスプレート」があるが、湿し水で現像したり、現像廃液をセッター内でろ過したりと完全なケミカルレスは実現できていない。この版は、完全ケミカルレスを実現した唯一の版であることから、発売前から注目されている。
現像機のスペースを殆ど必要としないというメリットもあり、販売にあたって、小規模の印刷会社も販売ターゲットに入れているが、企業体力の問題から水なし印刷の導入が遅れているのもこの層である。この層での採用が増えれば、水なし印刷の更なる普及につながると期待される。また、高精細印刷物のニーズに合わせて、FMスクリーン対応の水なしCTP版も発売予定である。
水なし印刷の普及について、同社は、冷却装置の有無が1つの分岐点になっていると考えている。冷却装置の後付けは、コストメリットという点で劣り、これが水なし印刷導入においてのリスクとなっている。同社は、ただ資材を売るのではなく、印刷会社の利益率改善のための提案を含めた営業活動をしていくことで水なし印刷を広めていきたいと考えている。ただ、初期設定さえ整えれば数値を管理していくだけで品質を保つことのできる水なし印刷を「管理印刷」とすれば、水あり印刷は印刷オペレーターによる「熟練印刷」であり、その業界内の印刷文化の違いが、新たな印刷方式である水なし印刷の参入を妨げてもいる。
現状、水なし版市場は同社の独占市場であるが、決して楽観はしていない。富士フィルムは、過去に参入経験がある。コダックグラフイックコミュニケーションズは、海外では水なし版の研究を行っている。ただ、水なし版における実績とノウハウという点で同社に一目の長があり、自社の更なる技術革新、市場拡大のため競合他社を歓迎する感もある。
しかし印刷方式という観点で考えると、薬剤使用を必要としないデジタル印刷の普及は、1つの脅威でもある。現時点では、品質においては、オフセット印刷に劣るという認識が業界内ではあるが、その差はかなり縮まってきている。部数において、オフセット印刷との棲み分けはできると考えられるが、素材中心の事業を展開している同社にとって、デジタル化はこれからの事業展開において不安要素の1つになってくると考えている。
今後、印写システム事業部ではシール・ラベル分野で商いシェアのある「トレリーフ」と水なし版の積極的な事業展開を進めていく。
特にここ数年、水なし版需要の伸び率は高く、更なる事業拡大を期待し、3年後には売上倍増を狙う。また、フレキソ版事業も立ち上げる予定であり、この3事業を柱とし、ゆくゆくは、売上3倍増を目指す方針である。